常任委員会と私

                    
 私が高生研の常任委員会の一員になったのは1998年、大阪大会が終わってすぐの頃でした。望月さんに騙され〜じゃなかったスカウトされて書記局に入りました。書記局長は内田さんでした。
 当時はまだ常任委員会と書記局が別々にあって、会議の日には書記局が午前中から集まって書記局会議を行ない、午後からは常任委員が集まってきて合同で常任委員会を行なうというスタイルでした。
 書記局に入ってから数年後に、全国大会(福岡)の大会担当になり、その数年後には滋賀大会と熊本大会の担当を連続でやりました。そうこうしているうちに常任委員会への参加者は年々減少し、ついに書記局と常任委員会が一本化されました。今思えば、この頃から高生研の雲行きは怪しくなり始めていたのでしょう。(なにしろ私が3回も大会担当をやるわけですから・・・)組合と同じで、新規開拓というか人材発掘ができなかったんですね。
 そんなわけで私たちの負担(仕事量)は年々増加し、それまでは外注に出していた機関誌の編集や発送作業まで自分たちの手で行なうようになりました。そんな中でもやって来れたのは、船橋さんや礒山さんや内田さん達と一緒に話をしながら仕事(作業)をするのが刺激的で楽しかったからです。(他の人はどう思っているかわかりませんが・・・)しかし実際のところ、退職しても高生研を担われている池野さんや上條さんがいるから持っているようなもので、われわれだってあと5年もすればほとんどが退職してしまいます。だから、船橋さんが常任委員会の解散を提起した時には、正直言ってホッとしました。今は「新しい高生研に、ゆっくりとついて行こう」という心境です。
 ひとつも“応援ブログ”的ではありませんが、時にはこういうのアリかなと。(千葉・片桐)